「天空の蜂」は、原発意識に対する国民への警鐘なのか?

「天空の蜂」は、高速増殖炉の原子力発電所に起こった想定外の事件という設定のサスペンス小説である。

僕がこの小説の文庫本をはじめて読んだのは昨年の2012年だが、単行本は1995年11月に発売されているので、発売の17年後に初めて読んだことになる。そんなわけだから、この小説を読んだ後に真っ先に思い浮かんだのが、東北大震災による福島第一原発事故であった。

しかし実は、この小説の発売された同じ1995年にも原発事件が発生していた。それは、この小説の発売日のわずか1ヶ月足らず後の12月8日のことであり、この小説のモデルでもある高速増殖炉“もんじゅ”がナトリウム漏れという事故を起こしていたのである。

この“もんじゅ”での事故の深刻度はレベル1とされ、最高のレベル7とされた福島第一原発事故と比べるべくもないが、レベル1だからこそ、余計に不可解だと思えることがある。

ひとつは、“もんじゅ”の開発に携わった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が事故当時の映像を流したが、その映像が実は編集されたものだったということ。※後に編集された部分も公開したということだが…

もうひとつは、この事故での報道の矢面に立たされた動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の総務部次長の自殺である。

なぜ、レベル1の事故程度で映像に細工をする必要があったのか?

なぜ、レベル1の事故程度で自殺まで追い込まれることになったのか?

実に不可解極まりないことである。 原発に対する隠蔽体質が垣間見えるのである。

この小説で東野圭吾氏は「脱原発」「原発擁護」のどちらの立場にも立っていないようである。作者は原発の是非を問おうとしているのではないことが、この小説から読み取れる。それよりも、原発問題を真剣に考えようともせず、どこか他人事のようにふるまっているの大多数の国民に対して、「原発問題を真剣に考えなさい」という警鐘を東野圭吾氏は鳴らしたかったに違いないのだ。

あの小説を書いてから16年後に起こったあの福島第一原発の事故を東野圭吾氏がどのように感じているのか、ぜひ聞いてみたいところである。ニュートラルな立場を貫いて、その判断は個々の読者に委ねているというスタンスの作家さんだからこそ、本音のところを聞いてみたい気持ちがある。

>>>小説【天空の蜂】のあらすじはこちらから

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