東野圭吾の「片想い」はラブストーリーなのか?
この「片想い」というタイトルだけ見ると、「純真な男女の切ないラブストーリー」なるものを想像する人も決して少なくないと思います。しかし、それを期待してこの小説を読むと、100%裏切られた気持ちになります。
正直、男女間のラブストーリーとしての要素は、まったく無いとまでは言いませんが、ほとんど無いと思ってよいと思います。
東野圭吾がミステリー作家であること、また、その作風が分かっていれば、「純真な男女の切ないラブストーリー」などを書くはずもないことが容易に想像がつくのですが(笑)
この小説の主な題材として挙げられているのが「性同一性障害」のこと。「性同一性障害」という言葉からも分かるように、医学的に病気という判断がされているようです。
僕自身も、「性同一性障害」の人たちの心理状態を理解することができないですし、明らかに自分とは異なる意識を持つ人として認識しています。
でも、果たして本当に病気と判断すべきなのか?ということに対しては、少し疑問を持っています。「性同一性障害」として扱われている症状は、人間が通常の生物より脳が発達したことにより表れるようになった一つの個性ではないかと思っているのです。
生物には、同一種を絶やしてはならないという本能があります。人間にも当然にそれがあるわけで、多くの男が女を求め、多くの女が男を求めるのはそのためです。つまり、男女の区別というのは『生物的本能としての身体的区別』に過ぎず、それが太古の昔から遺伝子として深く刻まれているということです。
しかし、通常の生物より進化した人間の脳は、そんな『生物的本能としての身体的区別』だけでは飽き足らず、違った角度で認識する者たちが現れてきた。そんな者たちの行き着いた先の一つが「性同一性障害」なのではないかと僕は考えているのです。そういう意味では、「同性愛」も同じことから派生したものなのかもしれないと。
生物学的知識も医学的知識もほとんど無い僕が言っていることなので、間違った解釈である可能性は非常に高いです。ただ、こういう人たちを病気を持つ人間として見るのではなく、一つの個性として認識することが重要なのではないかと思っています。そんなことを考えさせられる作品でした。
自ら「性同一性障害」であると告白されている方のサイトだけに、かなり分析されていることに感心させらます。このサイトの情報によると、僕が考えている説なんて全否定すべきものに過ぎないのかもしれませんね(汗)