「虚ろな十字架」を読んで、死刑制度について考える
<上記の画像は、光文社の「虚ろな十字架 特設ページ」より引用>
死刑制度は是か非か?
「虚ろな十字架」は、罪を償うということの本当の意味を、死刑制度に絡めて訴えかけている。そんな、実に重いテーマを掲げた作品に仕上がっている。感動と言うよりは、考えさせられる作品である。
裁判員制度になり、いつ自分が法廷に呼び出されるかもしれない現実を考えると、真剣に考えるべき問題だと思う。いつ、自分が人の生死を判断する裁判に関わるかもしれないからだ。
しかし、この小説を読んで、ますますその答えは分からなくなってきた、というのが正直なところである。
「人を殺せば死刑-そのようにさだめる最大のメリットは、その犯人にはもう誰も殺せないということだ」
上記の言葉は、この小説に登場するフリーライター浜岡小夜子が残した言葉だ。彼女は、娘を殺害されており、その犯人は(殺人の)再犯だったのだ。初犯の時に死刑になっていれば娘が殺されることはなかった、という彼女の悔しくてやり切れない想いが伝わる言葉である。この浜岡小夜子も殺されるわけだが、その殺された理由がこの小説の最大の謎となるである。
これと正反対の意見を述べているのが、娘を殺害した男を弁護した弁護士だった。しかし、死刑を反対しているのは、単に犯人を弁護する気持ちからではなかった。その弁護士は、次のように語っている。「死刑は無力」だと。なぜ、その弁護士がそのように語ったかというと、次のような理由からである。
犯人は、途中で死刑を受け入れるようになった。しかし、それは決して罪の贖罪からではなく、自分の運命として捉えたに過ぎなかった。犯人は、「どうせ人はいつかは死ぬ運命。たまたまそれが死刑という理由であったに過ぎない」と開き直って、死刑を受け入れたに過ぎないのである。死刑という判決は、この犯人に罪を贖罪される機会を奪ったに過ぎなかった。
というのが、この弁護人が死刑反対を訴えた大きな理由であった。
正直、どちらの意見にも納得できるところがある。しかし、反論も思い浮かぶのである。だから、迷うのである。それはきっと、自分にまだまだ切実感が足らないというのが大きな理由なのだと思う。
果たして、自分が裁判員になった時、いや、事件の当事者となった時、自信を持って結論を出せるのであろうか・・・?