「容疑者Xの献身」の純愛批判について

<上記の画像は、ブログ「1年で365本ひたすら映画を観まくる日記」より引用>

容疑者Xの献身は、本当に献身なのか?

容疑者Xの献身は、紛れもなく東野圭吾氏の代表作である。直木賞のみならず、数々の賞を総なめにしていることからも、このことに異論を唱える人は少ないと思う。
しかし、それにも関わらず、論争と批判の多い作品でもあった。

論争とは、推理作家の二階堂黎人が疑問を呈したことから始まった「本格ミステリー論争」。
批判とは、小説で書かれた容疑者Xのやったことが純愛とは呼べないという批判である。

正直、僕にとっては、「容疑者Xの献身」が本格ミステリーかどうかなんて論争はどうでもいいこと。この小説がどのカテゴリーの小説として分類されるべきかは、業界の人間でもない一読者にしか過ぎない僕にとっては、まったく興味がないわけである。僕にとって重要なのは、その小説を読んでどのような感情が湧いたかということだけである。

だからかもしれないが、むしろ関心があったのは、「純愛」批判のほうである。

「純愛」と呼べないという批判は、容疑者Xが愛する人を守るために、まったく関係の無い人間を死に追いやったことからきている。つまり、こんなものは「純愛」などではなく、単なる身勝手な「エゴ」に過ぎないということである。

僕は、「愛」というものを「男女間の愛」と捉えるのか、それとも「人間愛」までをも含むものと捉えるのかによって、判断が変わってくるのだと考えている。つまり、愛を「男女間の愛」と捉えるのであれば、容疑者Xのやったことは「純愛」だと考えることが出来るだろうし、「人間愛」までをも含むものと捉えるのであれば、この行為を「純愛」だと容認することは到底できないだろうと言うことである。

僕はどうかと言うと、容疑者Xの行為を「純愛」だと思っている。そもそも、「純愛」に道義的な解釈までを持ち込むべきではないとも思っている。あくまでも、僕自身の思いに過ぎないのだが。

でも、そもそもそんなことは自分だけが思っていればいいことであって、アマゾンなどで、「絶対に読まないほうがいい」などと他の読者の読書意欲を削ぐような言葉をわざわざ書いているレビューを見ると、「どうしてそこまで言い切るの?あなたの価値判断を勝手に押し付けないで欲しいな!」と思ってしまうのであります。感想だけを書けばいいのであって、他者の行動まで制限するような言葉まで混入させるのはいかがなものかと思うのであります。
こういうことを書いている僕も、他者の行動を制限する言葉を書いているのかもしれないが・・・。

>>>小説【容疑者Xの献身】のあらすじはこちらから

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