「同級生」小学生の頃から教師が嫌いだった東野圭吾

小説「同級生」の文庫本の最後に、東野圭吾による“あとがき”が掲載されている。その“あとがき”で、小学生の時代から教師が嫌いであったことを告白している。この小説「同級生」を読むと、東野圭吾がどんなに教師嫌いだったかが、よく分かるような気がする。

僕の場合、教師嫌いというほどのことではなかったが、少なくとも“恩師”と呼びたくなるような教師には巡り合うことはなかった。教師に対しては、いい印象も持っていない代わりに悪い印象もあまり持っていない、というところである。

たまに、“恩師”のおかげで自分の人生が変わったかのような話しをする人がいるが、そんな人のことを羨ましいと思うことがある。「なぜ自分の周りにはそんな教師がいなかったのか?」と残念に感じたことは、一度や二度ではない。

でも、齢を重ねた今、本当にそうだったのだろうか?と考えることがある。自分の周りに恩師と呼べるような先生がいなかったと思うのは、単に自分が見逃していただけではないかと。自分が教師の想いを汲み取っていなかっただけではないかと。

実は、僕にはこんな思い出がある。

僕が通っていた私立高校は、当時は中の上ぐらい程度のレベルの高校であった。その高校は有名な進学校になることを目指しており(今では、本当に有名な進学校になったようだが)、3年生からは、国公立の大学を目指すものと私立大学や就職を目指すものとがクラス分けされることになっていた。そして、僕は国公立大学を目指すクラスに入ることになった。

しかし、当時の僕の素行は、教師にとってはあまり好ましいものではなかったようだ。自分自身が不良だったとはあまり思っていないが、少なくとも不良と呼ばれる者たちとの付き合いがあり、その者たちと行動することも多かった。真面目な生徒たちと付き合うより、彼らと付き合うことのほうが楽しかったからだ。

だが教師たちは、国公立大学を目指すクラスの生徒が不良たちと仲良くしていることを快く思っていなかったようだ。そして、ある事件をきっかけに、僕はその不良たちとは疎遠になってしまった。そして僕は、これが担任教師の策略によるものだと考えていた。

それ以来、担任教師にムカついていた僕は、卒業後に彼の家に訪ねた。正直、一発殴らなければ気が済まなかったからだ。しかし担任教師は、「よく来てくれたな」と、そんな僕を満面の笑みを浮かべてを迎えた。この教師の満面の笑みを見た瞬間、僕の怒りは急速に萎んでしまった。「この人は、今まで世話になったお礼を生徒がわざわざ言いにきたと勘違いしているんだ。」ということを感じたからである。

あの時は白けた気分になったという記憶しかないのだが、今にして思えば、彼は、彼なりに教師という仕事に情熱を傾けていたのではないかと思えるのである。教育に情熱を持たない教師が、あんな満面な笑みで生徒を迎えることがあるのだろうか?と思えるのである。

あの頃の自分に、もう少し人の気持ちを汲み取る力があれば、あの教師のことを「自分のとっては“恩師”である」と言えたのかもしれないのである。

>>>小説【同級生】のあらすじはこちらから

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